全国旅手帖砥部焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

山に囲まれた砥部町は奈良・平安時代から全国に名を知られた伊予砥の産地でした。伊予砥を採掘した砥石山の一帯は「砥山」と呼ばれ、その名残が「砥部」の地名の由来となったといわれています。奥に見える山並は西日本最高峰・石鎚山をはじめとする四国連峰です。

■砥部焼の誕生
 砥部焼の発祥地・伊予郡砥部町は山に囲まれた傾斜地の町です。やきものに適した陶土が産出し、周囲の山々からは燃料となる赤松が大量に採れ、さらに斜面は登り窯を築くのに最適であることから非常にやきもの作りに適した土地であったといえます。そのため、古くからやきものが盛んに作られていました。現在でも6〜7世紀頃のものとされる須恵器の窯跡が残っています。
 「水満田(みつまた)古墳公園のはにわ窯」
砥部町では古墳や集落の遺跡のほかに窯跡がたくさん見つかっており、古墳時代後期から須恵器やはにわを焼いていたことが分かっています。公園内にある「はにわ窯」は砥部町から出土した穴窯を復元したものです。
 江戸時代の半ばまでは現在のような磁器ではなく陶器が作られていました。当時一般的に作られていた、松竹梅、魚といった素朴なモチーフの庶民的な器は現在の砥部焼にも通じるものがあります。
  しかし、干ばつによる農作物の不作や、江戸藩邸の火事などで厳しい財政状況下にあった大洲(おおず)藩は新たな産業で国おこしをしようと考え、特産品である伊予砥(砥石)の屑を利用した磁器の開発へとのり出します。今から230年程前、安永4年(1775)のことでした。
 当時の藩主・加藤泰候(やすとき)の命をうけ、磁器作りを始めたのが杉野丈助(すぎのじょうすけ)でした。
 丈助はまず、砥部・五本松の丘に登窯を築き、肥前から陶工を招いて磁器作りを開始しました。この窯を上原窯(かんばらがま)といいます。しかし、何度挑戦しても失敗の連続で、招いた陶工も砥部を去り、資金も底をついた丈助は家財を投げ打ち、自分の家屋をも燃料とし一人で磁器開発を続けます。

上原窯 「染付人物文茶壷」(江戸末期)
 そして安永6年(1777)、ついに白磁の焼成に成功、砥部に磁器が誕生しました。その後、文政元年(1818)、向井源治が原料革命となる川登(かわと)陶石を発見。嘉永元年(1848)、井岡太蔵がレンガを使った窯を作るなど様々な技術的向上を続け、砥部焼は発展することとなります。
往時を偲ばせる佐川製陶所の水車小屋 水車小屋内部
山麓を流れる砥部川の支流では、原料の陶石を砕くために水車を利用することができました。
現在では機械化されましたが、川登の佐川製陶所の水車小屋が当時の面影を残しています。
昔と変わらず製陶所の前を流れる砥部川

砥部焼で使われる土は鉄分が含まれていることから、天草の陶石のように純白ではなく、淡黄色や青味がかった焼き上がりになるのが特徴です。また、原土は無尽蔵にあることから砥部以外の産地(瀬戸など)へ多く出荷しています。
■明治〜昭和時代の砥部焼
 明治期に入り砥部焼の発展に貢献した人物に伊藤允譲(いんじょう)がいます。明治10年、允譲は五松斎(ごしょうさい)の名で、五本松に開窯し肥前から陶工を招き型絵染付の技法を学び広めました。五松斎の作品は作陶の精巧さと絵の配置構成、色あいの良さで砥部焼の代表作品といわれ、後の砥部錦絵発達に寄与しました。

五松斎窯 「錦絵獅子牡丹大皿」(明治初期)


「淡黄磁寒山拾得立像」(明治)
椋尾吉備作
 砥部焼の名を世界的に有名したのが向井和平(むかいわへい)です。砥部焼中興の祖ともいわれ、砥部焼の輸出や砥部焼の改良に尽力しました。和平(愛山窯)が創製し、砥部焼の名品となった淡黄色の磁器・淡黄磁は象牙色の温かみある磁器として花器、和洋食器、置物などが作られ、それらの作品はシカゴ世界博覧会(1893年)に出品され1等賞を獲得し、世界進出への門戸を開きました。
 順調に発展を遂げる砥部焼でしたが昭和に入り、世界的な不況と第二次世界大戦によって戦後、壊滅的な打撃を受けることとなります。衰退した砥部焼を復興させようとしたのが戦火を逃れた陶工達でした。絵の具に泥呉須 筆はつけたてという現在の砥部焼スタイルを確立したのもこの時です。さらに民芸運動が砥部焼再興の追い風となります。
 思想の普及のため全国各地を訪れていた柳宗悦、濱田庄司が砥部を訪れ、陶芸指導が行われました。民芸運動によって身近な民芸が顧みられるようになり、陶工達の意欲的な創作と技術の向上に拍車をかけ、今日へと続く砥部焼の礎が築かれました。
濱田庄司作
砥部と益子の土を混ぜて作った急須
民芸運動とは…
工芸が本来持つべき美の根源を民衆の生活の中に見つけようとする思想のもと起こった運動。柳宗悦を中心として展開した民芸運動は陶芸をはじめとする工芸全般に支持され、バナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司ら多くの工芸家が参加。その活動は現在まで続いている。
■現在の砥部焼
 古くは生活に必要な、碗や皿などが多く焼かれた砥部焼の歴史は江戸後期から明治期にかけての豪華な色絵や白磁の格調高い作品を経て、現在再び、暮らしの中の器として定着しつつあります。
 器肌は青みがかった白色で、口縁は厚みのある玉縁(たまぶち)状の全体的にぽってりとしたフォルムに呉須を使い、勢いのある筆さばきで砥部焼の伝統的な文様といわれる「太陽文」、「唐草文」、「なずな文」を描いた染付の器が砥部焼の作品として一般的ですが、その他にも青磁や白磁、色絵など種々あるのもまた砥部焼の伝統と言えるでしょう。
 時代とともに砥部焼伝統の文様をあしらった器を制作する窯元は減少し、現在は若手の陶工達による現代的意匠の器が増えています。
唐草文 太陽文 なずな文
 230年余の長い歴史の中、作風だけでなく窯の数も、その場所も変遷を繰り返しました。陶器時代には北川毛・大南地区、磁器の時代には五本松地区、その後、岩谷口・川登地区と窯は増え続け、現在では大南・五本松地区を中心として町内各地に100軒程の窯元が活動を続けています。
 現代のやきもの制作は一人の作家が全てを行うスタイルが主流となってきていますが、砥部では分業で制作を行う窯元が数多くあります。
窯元が集中する五本松の通り。山の麓に広がるのんびりとした風情の五本松エリアは陶産地ならではの工房や煙突のある風景が楽しめる窯元巡りには最適のスポットです。
 100年以上の歴史を持つ砥部最大の窯元・梅山窯も完全分業制で、数十人の職人によって伝統の文をあしらった砥部焼らしい器を大規模な生産体制で製造しています。
 規模は大小ありますが、成形と絵付けを分業で行う窯元が多く、一人の作家によって作られた「作家もの」といわれるような高額作品よりもはるかに手に入れやすい価格で優れた製品を見つけることが出来るのが砥部焼の特長となっています。
完全分業制で大量生産を行う梅山窯。成形から絵付けまですべて手作業で行われます。
 また、現在の砥部焼で顕著なのが女性陶工の増加です。女性もしくは主婦の目線で考えられた現代の暮らしに調和する器は、下絵付けが大半であることから電子レンジや食器洗浄機にも耐える便利さがあり、多彩な色使いや愛らしいデザインで人気を集めています。
電子レンジOKの優れもの 女性作家による繊細な絵付けが魅力
 全国的にやきもの産業が落ち込む中、砥部は非常に活気のある陶産地であるといえます。松山市や道後温泉といった人気の観光地に隣接しているという地理的な有利もあるでしょうが、最大の要因は、暮らしに密着した器を作り続けているためであると考えられます。毎日使える便利さと砥部焼を守る陶工たちの熱意が現在の砥部焼人気を支えています。

※下絵付け=釉掛けの前に顔料で絵を描き、釉薬を掛けて本焼成すること

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