全国旅手帖薩摩焼(歴史・特徴)

薩摩焼写真 薩摩焼タイトル

 薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529〜1598)別名「やきもの戦争」で朝鮮出兵した薩摩藩17代藩主島津義弘が80人以上の朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。陶工らは藩内各地に窯を開き、後にそれらは苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼の5系統に分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場。
 苗代川系、竪野系は一般の人には使用が禁じられた「白もん」と呼ばれる白薩摩を主に焼き、藩の庇護のもと白もんの優品を数多く製作しました。
 藩は京都に職人を派遣し、色絵錦手や金襴手の高い技術の習得に努め、パリ万博にも出品。「SATUMA」の名で広く知れ渡りました。象牙色の器肌に金、赤、緑、黄、紫色などで絵付けする色絵錦手や金襴手は陶器でありながら磁器のような繊細さで、その豪華で精緻な装飾は現在においてもなお多くの人々を魅了し続けています。
 白もんに対して「黒もん」と呼ばれる黒薩摩を得意としたのが龍門司系です。黒もんは鉄分が多い土を高温で焼き締めるため、素朴で頑丈な仕上がりが特徴。まさに普段使いにはうってつけの陶器で庶民の器として愛されてきました。黒釉、褐釉、蕎麦釉などを掛け、3系統の窯場で茶陶から日用品まで幅広く作られました。代表的なのは焼酎の燗をする土瓶型の「黒茶家(くろじょか)」や、徳利の一種である「カラカラ」です。もっと詳しく

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